慈永会について
457号 発進塔:ふり返る
掲載日:2023年11月10日
故郷の天草に帰り、診療所を開設し、その一室で療育園の開設準備を始めたのは私が33歳の時でした。当時、瀬戸内海の小さな島で診療所の手伝いをしていましたが、その折生まれた長男に二分脊椎があり、手術が必要でした。私の気持も動揺し、急遽心が落ち着く場として故郷に帰り、子供の治療や介護に専念する事にしました。
自分がそういった親の立場になった時初めて気付いたのが如何に同じ思いをしている親達が多いかということでした。折しも、ノーマライゼーションという思想が日本でも知られるようになった時代でもありました。
診療所の一室を施設開設の準備室とし、中学の同級生でもあった薬剤師の阿部象輔さんが準備室長として施設開設に取り組んでくれました。当初は肢体不自由の施設を目指していましたが、重心施設が不足しているから変更してくれないかという行政の依頼もあり、重症心身障害児施設へと変更することにしました。
この時期、私はある特別養護老人ホームの落成式の会場で児玉誉士夫さんと同席する機会を得ました。彼は私が障害児施設を開設したいとお話しすると、障がい者施設への補助金を日本自転車振興会が行っている事や申請の方法、共同募金等々を懇切丁寧に説明して下さると共に紹介までして頂きました。そのおかげで今日の施設があるといっても過言ではありません。なお、私の家族全部が非常に協力してくれた事も申し添えておきたいと思います。
締の難しさ
中国の古典に「百里を行く者は、九十里をもって半ばとす」という言葉があります。同じような意味合いで兼好法師の徒然草に「高名の木登り」という一節もあります。注釈の必要もないと思いますが、前者は「百里を行こうと思っている人は、九十里を過ぎた所で、未だ半分に到着したという位の気持ちで残りの十里に挑みなさい」といった教えです。残りは一割ですが、それ迄の疲れもあるだろうし、気も緩むからです。後者は、木登りの名人と言われる男が、ある日弟子に指示して高い木に登らせ、枝切りをさせたいた時のこと、高い所で作業していた折には何も言わずに眺めていたが、仕事が終わって降りるとき、ほんの軒の高さまで来た所で「用心しろよ」と声を掛けた。その一部始終を眺めていた人が不思議に思い、親方に「それ位の所なのに心配そうに注意し、高い所にいる時はなぜ声を掛けなかったのか」と問うと、「高い所にいる時は誰だって注意をするものだ。だから心配ないが、怪我をするのは決まって易しい所まで降りて来た辺りで気が緩んで起きるものだ」と答えた、と言ったのです。いずれも物事の締の難しさ、大切さを説いたものです。
これは20数年前にも発進塔で述べたものです。当時、私は60歳で総て隠居しようと考えていたからでもあります。その考えを覆させたのは台湾プラスチックの王会長のことばでした。彼が言われたのが、「人間60歳が最も他人から信頼され仕事も出来る年齢である。自分も60歳から本格的な事業に取り組んだ。今止めるとは勿体ない」。その言葉に引きずられ、今考えると大半の事業はそれ以降に成してきたようでもあります。
一貫グループ会長
永野 義孝
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