慈永会について
454号 発進塔:隣国
掲載日:2023年05月01日
日本と韓国は一衣帯水の関係にありながら、歴史的問題の解釈の違いもあって、近くて近い存在であったり、近くて遠い存在を近年繰り返して来た。どうやら今回は近くて近い間柄に落着きそうに思える状況だと感じている。ただ懸念するのが徴用工問題の解決で、総て終わりになるのかという疑念がなんとなく頭を過(よぎ)る。
私が過去にお逢いした方に巌敬昊(オムイキョン)さんという方がいらっしゃった。彼は北朝鮮出身だが韓国を代表する三星工業の社長をなさった方である。小中学校を平壌の日本人学校に通っておられた関係で友人に日本人が多く、勇退後はその人たちに逢うことを楽しみにしているということであった。またどういう訳か天草の人も多いそうで、その節は福島龍雄先生先生のお見舞いということであった。
話は多岐にわたり随分話し込んだ。その中で大きく意見に相違があったのが靖国神社の問題であった。「ところで貴方は靖国神社に参拝したことはあるのか」と問われたので「無いです」と答えたら、それではこの話は次回にしようということになった。余談であるが私は翌日に日帰りで東京に行き、靖国神社を参拝した。私は鹿児島の知覧の記念碑を想定していたが、それとは全く異なった印象を受けた。
巌さんからは当時の教育に関する意外な話も聞かされたので2002年8月の原稿をそのまま書いてみる。
逆境をバネに
日韓併合時代における国民学校では、朝鮮生まれの子どもはどんなに成績が優れていてもクラス(当時は1クラス60名以上)で20番以上になれない仕組みになっていたという。
日本人は朝鮮民族に比べ、優秀な民族であると思わせる為に、国策として朝鮮の子どもの点数を一律にカットしていたそうである。中学生になったある時、福岡県出身で数学の朝倉先生という方が、巌少年を呼んでこう言われたそうである。
「自分は教育者として恥ずかしい、今後はどんなに圧力があっても、ありのままの点数をつけるから。」と
少年は自分の成績は上位である筈なのにと、不審に思い続けていたので、この話をきいて合点がいったそうである。同時に闘争心が沸きガムシャラに努力したそうである。逆境をバネにしたのであった。そして朝倉先生を尊敬し、自分が社長に就任するとすぐに御夫妻を韓国にお招きし、可能な限りのもてなしで、お礼の気持ちを伝えたと言っておられた。
今でも年一回の墓参りは欠かさないということであった。やがて終戦記念日を迎える。人間にとって過去は消えない。些細なことでもいいから我々は出来るだけ多くの歴史を学び明るい将来を築いてゆかなければならないと感じたりしている。
ついでに
我々の先祖がアジアの諸外国に堪え難い苦痛を与えた歴史を正しく理解する必要があり、過ちを繰り返してはならない。然し、孫子がいつ迄も遜(へりくだ)る必要はない。
一貫グループ会長
永野 義孝
1.「発進塔Ⅱ」刊行
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