発進塔

449号 発進塔:法人設立五十年

掲載日:2022年07月01日

私は結婚して間もなく、懇願されて瀬戸内海の小島にある小さな村の診療所に赴任した。唯一の診療所が閉院になり、住民が困っているので暫くでもいいからと依頼されてのものであった。

振り返ってみると2年半に及んだそこでの生活が、医師としてのスタートであったし、新婚旅行の旅みたいなものでもあった。村の方々には親切にして頂いたし、蜜柑が有名な島でもあり、秋には島の周りの海面がその色に染まる程であった。また近隣の島々にはマージャンや囲碁、さらにはクルーザーといった趣味を同じくする医師仲間もでき、結構楽しい生活を送っていた。夏休みなどには近所の子ども達を集めてクルーザーに乗せてやったり、たまには渦潮巻く来島(くるしま)海峡あたりを巡ったりしたこともあった。

そんな中、私達の家族に新たに加わった「命」が私達を福祉事業に導いて来た。そして、いつの間にか50年が経過した。私が地元に戻り、永野医院を開きながら施設開設の準備を始めた1969年はアポロ11号が人類初月面着陸した年であった。

初めの頃は自分達がこの子の面倒をみようと考えていた。しかし手術・リハビリを繰り返すうちに、長期戦を覚悟しなければいけないと気付いた。家内は母子入院を繰り返し、リハビリに励んだりしていた。一時帰宅のときのこと、長男を抱いている後姿がいかにも寂しそうに私の目には映った。そのときに感じた私の気持ちを私は慈永会の経営理念とした。「障害をもった子どもを抱いて途方に暮れている母親の気持ちになって心のかよった療育を科学的かつ適正に行う」である。

重複した重度の障がいを背負って生まれた子どもの平均寿命は十九歳が限度であるとされていた頃、何故か私は自分が先に逝って了ったときのことを考えた。後になって、多くの親御さん方もそういう想いをなさったということを知ったのである。

当時はノーマライゼーションの思想が日本でやっと知られるようになった時代でもあった。何度も繰り返しになるが、その発想はデンマークで障がいのある子どもを施設に入居させているある母親が発した言葉であった。「何故、障がいのある人達は人里離れた辺鄙(へんぴ)な所で生活しているのであろうか。お年寄りも子どもも、障がいのある人もそうでない人も共に一緒に暮らす世の中がノーマルな社会ではないのか」というものだった。確かにそうも言える。しかし私は敢えて施設開設に歩み出したのであった。

法人設立は県に設立認可申請書を提出することになるが、当時はそれが厚生省であった。申請をするにはまず施設建築に必要な土地を確保して、それを法人に寄付しなければならない。次に建築に必要な資金の確保である。資金は補助金と自己資金である。即ち土地と自己資金の目途がついた段階で補助金の申請という段取りになる。旧はまゆう療育園の補助金は日本自転車振興会より、建築費の83%を頂いた。建築に関しては個人負担は17%であった。補助金が承認され、法人が認可されるとすぐさま建築に着手し、翌年1月末には竣工。2月1日付で80床からスタートした。その後、増床や重症管理室の設置等々を繰り返し運営を続けてきた。皆さんご存じの通り、更に一昨年は新たに新築移転して今日に到っている。建物は立派になり、支援学校も新築移転して頂いたので、これを機になお一層内容の充実に努めていかねばと考えている次第である。

旧はまゆう療育園には日本自転車振興会のマークの入ったレリーフを玄関脇に設置していたが、覚えている人がいるであろうか。

現在の療育園建築は国からの補助という事になったが、ちなみにその額は消費税程度だったので申し添えておく。

一貫グループ会長
永野 義孝

今月の紙面一覧

1.写真で振り返る慈永会の歩み
2.個別就職相談会 法人設立50年に寄せて② 家族と一緒に
3.コロナ・高齢者施設の医療体制 4回目接種 決算報告
4.「梅雨」を楽しむ 保育ステーション 楽しみな園芸

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