発進塔

440号 発進塔:生き方

掲載日:2020年10月31日

論語に「憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず。一隅を挙げて三隅を以て反せざれば則ち復せず」という行がある。注釈をする前に、まず文言について若干説明をしてみる。

「憤」とは、学んだ事柄や事象に関して、何んとなく理解は出来ているものの、もう少しという所で合点がいかない所があり、もどかしさを感じている、といった状況である。次に「悱」とは自分にとって、理解しがたい、納得しがたい悩みなどが生じた場合などに他人、例えば師と仰ぐ人とか、自分が尊敬している上司や信頼する同僚などに思い切って言葉にして質問したり、相談したり、教えを乞うといった意味である。なお「啓」とは門戸を開いて相手を家に招き入れ、親切・丁寧な口調で教えてやる、といった意味で用いられている。

そこでくどい様だがもう一度振り返って、文脈を読み直してみよう。

教わったことがある程度は理解できるものの、あと一歩という所で合点がいかず、考えあぐねて悶々としているような程度でないと、再度教えるようなことを私はしない。また理解し難いことや悩みがある時などに、思い切って打ち明けたり、問い直してみる気概がないような者に私は声をかけてやったりはしない、と言っているのである。

そして判り易い実例として孔子は後半を述べている。重箱みたいな物を作るとしよう。四角なものの一つの角を教えられたら、残りの三つの角は自分で考えればわかる筈だ。それを判ろうとしない者には、何を教えても無駄である。とにかく、習う者に情熱があり、苦労を厭わない気持ちがなければ、そんな者に教育しても無駄である、実りはない、となろうか。あるいはこれを読んでもなかなか理解できない者もいると思う。若しそうであったら、弟子に書物を渡した後、弟子が書物の内容に関して質問した時、弘法大師(空海)が「読書百篇意おのずから通ず」と答えた意味を考えてもらいたい。

以前私は「若者は将来について語り、老人は過去について話したがる」と、この欄に書いた。勿論、総てがそうだとは言っていない。しかし最近はどうも違うようだ。老人は諸々の今後の生活不安からか未来を語り、若者は将来についてはほとんど語らず、「今」のみを語っている。

若者は今に満足しきっているからなのか、または無気力になっているのか、あるいはもう諦めて了っているのだろうか、と考えさせられたりもする。

余 録

コロナウイルス感染拡大の合間をぬって6月1日に職員総出で入園児(者)の新療育園への移動を完了した時点で私は、自身の年齢に加え、病気の事もあり、職位を九月末で後進に譲ろうと考えていた。

残している写真を整理しながら自身の道程を振り返ってみたり、「残日録」でも書いてみたり、と結構やることは沢山ありそうだった。

しかしこれを、半年余り先送りする事にした。というのも、今になって考えてみると為残したことが大きいのに驚いているからである。論語に、

 一年の計は穀を樹うるに如くは莫し

 十年の計は木を樹うるに如くは莫し

 終身の計は人を樹うるに如くは莫し

とある。事業を起こし、継承さす、という事は私にとっては終身の計であったはずである。それなのに、人材の育成という最も大切なことを怠っていた。

一貫グループ会長
永野 義孝

今月の紙面一覧

1.50周年記念誌 療育園引越
2.新たな一歩 入所者の散髪について プレゼント届く
3.コロナ対策室始動 ショーウィンドウで写真展 決算公示
4.医療連携室 天草町巡回診療開始 インフルエンザ予防接種

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