発進塔

439号 発進塔:保科正之の改革

掲載日:2020年03月31日

近年、科学の著しい進歩もあり、人々の生きざまは刻々と変化してゆく。先例踏襲だけではついて行けない。常に改善・改革も必要である。その為にはまず自分で考え・悩み・行動してみなければいけない。そして実行にあたっては細心の気配りも必要である。

それを400年前に実践してみせた人物が日本にいた。保科正之である。ここで保科正之について少し述べてみる。正之は徳川幕府の二代将軍秀忠の側室の子として生まれた。七歳の時信州高遠藩に養子として出され、養父保科正光が逝去した為21歳の若さで藩主となった人物である。誠実にして奢らぬ人柄であり、かつ知足の精神を身につけていたとされている。それゆえ26歳で山形20万石へ、そして33歳の時初代会津藩主となった。三代将軍家光は長らく正之が実の弟であることは知らされていなかった。弟の大納言忠長が亡くなったあと心を痛めていた時、寺の住職から正之が異母弟である事を知らされ、少しずつ引き立てていった。正之が弟としてではなく家臣として仕えようとする謙虚な姿に家光は心惹かれたと言われている。

四代将軍家綱の補佐役となった彼は手腕をふるい、改革を進めていった。その功績は大名証人制度の緩和(大名家臣の人質江戸住まいを廃止した)や末期養子(大名当主の急逝等による緊急の養子縁組)の禁の緩和、殉死の禁止などが挙げられる。小さい事柄まで並べることは避けるが、一言でいうと幕府の従来の政策を総て時代に即して変えてしまったと言っていい位であった。それは見事な方針の転換であった。

日頃から繰り返し述べているが、創業者が何の為にその事業を始めたのかという思いが経営理念である。正確に言葉にはできない「念」みたいなものである。然し経営方針は時代や社会状勢によって変更可能なものである。そうは言っても先例踏襲の良い例もある。

老馬の智用うべし

5年程前にも紹介したが韓子による「韓非子」の一節である。韓非子には今日でいう政治・法律の学に近く、事を行うに信賞必罰を厳守することとしたものが多く見られる。また引例が極めて豊富であり、読む人の興味をそそるものが多い。その概略はこうである。

紀元前3世紀の話であるが、斉の桓公が北方平定の為に遠征した時のことが舞台である。春に出陣し、当初は夏までには帰れるものと考えていた。だが、いざ戦になってみると戦況が思うにまかせず、平定を終えて帰路に着いたのは真冬になってからであった。途中で猛吹雪にあい、進行する方向すら判らず彷徨い、立ち往生して10万の軍・馬は慌てふためき極度に困憊(こんぱい)した。

そんな折、宰相の管仲が桓公に進言したのが「老馬の智用うべし」であった。「年老いた馬はどこに行っても自分が生まれ育った故郷を憶えているものだ。馬の手綱をやたらと引くのではなく、手を離して下さい」と言ったそうである。全員が無事帰還できたという。

この例を挙げて韓子は人が最も困難に向き合い、どうしようもなくなった場合には慌てず経験豊富な人に尋ねてみなさいと説いているのである。同じような局面に出合い、それを苦労しながら解決した経験を持っている筈だからである。

昔の話をしたが、今後は想像以上に世の中は変化してゆくであろう。朝令暮改と批判されてもいいから、スピード感が必要となる。

備えよう

いま世界中にウイルスが猛威をふるっている。考えてみると人間は細菌やらウイルスとの戦いを繰り返しながら生き延びてきた歴史がある。

新療育園の門を通り、眼前の坂道を歩くと最初の石碑に出合う。アルベール・カミュの詩の一節である。医師で作家・詩人であったカミュが生きた100年前にはペストが大流行し1億人もの人が亡くなったと言われている。当時彼は人々を助ける為に奔走するが、ついに絶望し、周りの人間も、自然も、神すらも信じられなくなり、ただ母親だけを信じて生きたのだと述べている。私達の今の状況はそこ迄追いつめられている訳ではない。しかし油断は禁物である。まずは自身を守ることで多くの命を守っていこう。

一貫グループ会長
永野 義孝

今月の紙面一覧

1.新療育園竣工
2.新はまゆう療育園施設紹介 飛翔
3.感染症慈永会の取り組み 永き友情の証 首藤先生を偲んで
4.マナー&コンプライアンス研修 教えてケアマネさん

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